『心得3 ~強さの前に礼儀あり~』
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心得3

『強さの前に礼儀あり。武道とは、精神を鍛え、人格を磨く道なり』

【解説】

《武道や格闘技に入門する理由とは?》

空手などの武道、ボクシングなどの格闘技を習う人の動機は「強くなりたい」であることは間違いないでしょう。
強さを求めて空手道場やボクシングジムの門をたたくことが入門する大きな動機であることは誰も否定できないでしょう。

でも、「強くなりたい」という動機は明確でも「強くなってどうする?」という命題を真剣に考えている武道者や格闘技者はそれほど多くないでしょう。

イジメを克服するため、又はイジメられないために武道を修練するという人はいるでしょうが、実際に空手の有段者となってイジメた相手に復讐する人は皆無です。
空手などの武術をケンカに強くなりたいという動機で入門したとしても、実際に有段者となってからケンカする人は皆無です。

それは、結論を先に言うと、武術などを修練しているといつの間にかその人の精神が強くなるからです。
もちろん戦闘力や体力も街のチンピラと闘っても負けないものが身につきます。(素手の闘いの場合)
ですが、いつの間にかケンカに強くなるとか、イジメられないため、という目的はどこかへ消えていきます。
それはなぜでしょうか?

そこにあるのは武道を修練することでその人の精神が向上するからです。
その精神の向上の一旦が「礼儀正しくなる」ということです。

孔子の説いた「礼」とは、「仁(愛)」と関係があります。
礼儀正しくなるとは、「自分より弱いものをイジメない(倒さない)」「節度ある人間関係を築く」「秩序を重んじる」ということです。

ですから、身勝手にケンカをしたりすることはないのです。
武術を習得するうちに、いつの間にか「ケンカをしたら負ける」と思っていた相手が「ケンカをしたら勝てる」へと変わっていくのです。
ですが、礼儀の心が培われていると弱いものイジメに関心がなくなるのです。
武術を修練する者の関心は、「より強くなるために己を鍛える」「より強い相手に勝つ(試合)」となるからです。
こうしたことがあるため、親御さんが小さな子供をさまざまな武道の道場に通わせる、ということが全国各地で起きているのです。

何が言いたいのかというと、武道や格闘技を習い始める動機としては「強くなりたい」というものが主流ですが、武術の鍛錬をしていくと必ず「礼の心」が身についてくるのです。
「礼の心」とは「礼儀」であり、目上の人を尊重する、年下や弱い者をいたわる気持ちなどです。

そうした礼儀を身につけることで、人間関係が良好となります。
武道は「礼に始まって礼に終わる」と言われるほど、「礼儀の心」を大切にします。
要するに、武道や格闘技を学ぶことは単なる戦闘力を身につける野蛮な人間になるのではなく、それとは真逆の紳士となる道であるのです。

日本のサムライや西洋の騎士は強さを持ちながら礼儀を身につけています。
武道や格闘技を習うということは「紳士への道」を歩むということなのです。
そして「紳士は強さを持っていなければならない」ということです。
別の表現をすると「紳士は強くあってこそ紳士となれる」ということです。
この場合の強さとは、肉体的強さに裏付けられた精神的強さです。

結局、武道や格闘技を学ぶことは、礼儀を身につけることであり、それは人間の精神向上につながる、ということです。

ですから、単なる「強ければいい」という者は邪道です。
正しい武道者と正しい格闘技者のあり方は、「強さの前に礼儀あり」です。

ですから、強ければルール違反してもいいというのは、礼儀を身につけるどころか野蛮化していることになります。(誰のことか分かりますか?)

「礼の心」無くして強さを身に付けたものはただの凶器であり、野蛮人です。

《「強さ」を求めることと「人格」の関係》

では、武道や格闘技を習うことがどうして人間としての向上になるのか? というと、それは他のスポーツでも同じですが、結局、武道の最初の敵と最終の敵は「己」だからです。
弱い自分と闘う、怠ける自分を叱咤する、挫ける自分を激励する、ということが武術の世界だからです。
武道や格闘技は、己の肉体を鍛錬することなので辛く厳しいものです。
そこにあるのは試合で対戦相手に勝利することが目的のように見えて、実は本当の敵は自分なのです。
練習で手抜きをする自分、辛さを我慢できない自分と戦わねば対戦相手に勝つことなど出来ないからです。
己に勝った者だけに勝利の女神がほほ笑むからです。

武術の道は、常に「己との闘い」なのです。
ですから、武術の道を歩み続けるということは、常に己と闘う勇者の道を歩むということなのです。
だから精神が向上するのです。
己との闘いを避けている者は永遠に精神の向上はありません。
そして重要なことは、その向上した精神は武道や格闘技の世界以外にも応用、適用が可能だということです。
つまり、武道や格闘技を修練することで得た強い精神力は人生を乗り切る力となり苦難困難に負けない力となるのです。
武術の鍛錬で身に付けた精神力は一生の宝です。

強い人間となるということは「礼儀を知る人間」であることと「他人に優しい人間」であるということを意味します。
他人をイジメる人、他人を見殺しにする人、困っている人がいるのに見て見ぬふりをする人は「弱い人間」なのです。

武術において強くなることの真の意味は「優しさ」「礼儀」を身にまとうということです。

《武術や格闘技の目的とは?》

武道、格闘技は戦闘術なので、その鍛錬もキツイものです。
基本技を身につければそれでいいかというと、武道の奥義に達するには長い年月が必要とされます。
つまり、「極めた」となかなか思えないのです。
奥義へと続く道が永遠の向こうにあるように感じるものです。
それほど武術の道は果てしないものです。

武術は戦闘術を身につけている肉体の鍛錬のように見えて、本当は肉体を鍛えることで精神を鍛えているのです。
本当に鍛えている真の対象は「肉体ではなく、精神」なのです。

ですから真の武道者、真の格闘技者は人格の向上が見られます
しかし、正しい武道者、正しい格闘技者の道を歩まない者は野蛮性が増していきます。
つまり、邪道を歩んでいる者には、「人格の磨き」が無いのです。
ただ、強いだけの野蛮人になっていくのです。
強いだけの野蛮人なら武道の道に入るべきではありません。

私が武術初心者の方に薦める“お手本”とする人はボクシング界の井上尚弥選手です。
彼は努力家であり、紳士です。
正しい格闘技者の道を歩んでいると思われます。

武道、格闘技の真の目的は「己の精神を鍛えることで人格を磨くこと」です。

《まとめ》

「強さ」だけを求める者は、邪道の道を歩む者。
強くなるということは、「礼儀正しくなる」ことであり、「他人に優しくなる」ことでもある。
武術の真の目的は、単なる戦闘術を身につけることにあらず。
武術の真の目的は、己の精神を鍛えることにあり。
人格を磨く道こそ、真の武術者が歩む道である。
人格の輝きが増してこそ、真の武術者の姿である。
よって、強さの前に「礼儀」あり

『心得3』

『強さの前に礼儀あり。武道とは、精神を鍛え、人格を磨く道なり』

押忍!

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