
心得4
『乱暴な闘いではなく、情熱的な闘いをしなさい。乱暴な空手と情熱的な空手は紙一重で違うもの! 情熱があれば能力の限界を超えられる!!』
【解説】
《はじめに》
まず初めに「乱暴な空手」と「情熱的な空手」は違うのか?
そもそも分けられるものなのか?
と、疑問を持つ方もいるでしょう。
これは私の見解なので、一般的に定義されたものではないことをお断りしておきます。
ですが、私は「乱暴な空手」と「情熱的な空手」には微妙な違いがあると思っています。
なぜなら、空手とは、本来護身術であり、防御から攻撃にうつる武術であり、精神修養がきちんとそこにある武道だからです。

要するに、「強ければそれでいい」「強くなければ意味がない」という武道ではないのです。
この空手本来の意味合いからそれた空手は、厳密に言えば正当な空手とは呼べないのです。
それは強さを求める格闘技化した空手であり、防御優先という姿勢を忘れたスポーツ化した空手なのです。
今回取り上げる「乱暴な空手」というのは、そういう流派があるわけではありません。
あくまでも空手家一個人の姿勢としてそうした方がいるということです。
それを始めに言っておきます。
《乱暴な空手とは?》
「乱暴な空手」とは?
空手の本来の姿は防御から攻撃にうつる武術だと言いましたが、空手がスポーツ化、格闘技化していったことで、まずいえることは「防御術」が蔑ろにされている、ということです。
つまり、「試合にいかに勝利するか」ということを前提としてどこの道場でも稽古を行っています。
それは「攻撃技主体の練習」となります。
空手が競技化することを別に否定しません。
まず、この「攻撃主体の競技」という面が強くあるということを頭にいれてください。
すると当然試合に勝つことが目的となりがちです。
空手の試合の場合、試合時間は3分(女子は2分)の流派がほとんどでしょう。
延長戦もありますが、通常3分という短い時間のなかで勝敗が決せられます。
するとどうなるでしょうか?
あくまでも傾向としてですが、「強気な性格の者」「瞬発力がある者」が有利になります。
別な言い方をすると「ケンカ上等の負けん気の強い者」「相手を倒すことに快楽を感じる者」が試合で勝つ傾向があります。
それは勝負ですから、それでいいのですが、それは同時に空手本来の武術としての姿が失われていくものでもあるということです。

要するに、「乱暴な空手」とは、獣の世界(弱肉強食の世界)のように強い者が弱いものをくだせばそれでいいという思想の上に立っている者の空手です。
試合に勝った相手、倒した相手への礼儀や敬意、いたわりを失った者の空手です。
空手は広く言えば格闘技の一種でしょうが、厳密に言えば護身術です。
ですから、必要以上に相手を痛めつける武術でもないし、そうした精神を持つ武道でもありません。
そうした礼儀や相手へのいたわりを失った選手が現代には多くいるように思えます。
《情熱的な空手とは?》
では、「情熱的な空手」とは、なんでしょうか?
結論から言えば、武術としての探求心、修練の心をいつまでも維持する者の姿です。
武術には終わりがありません。
それは、自分の技に磨きをかけ続けるということを意味します。
そこにあるのは奥深い武術への「探求心」「修練心」です。
それを一般的には「情熱」と呼ぶのです。
この武術の奥義を極める情熱のベクトルは、己に向けられています。
一方、試合に勝つことを主眼とした空手の目は、対戦相手に向けられています。
対戦相手に勝つための自分という写し鏡でみる自分なのです。
ですが、「情熱的な空手の探究者」の視点は常に己の武術向上が最大の関心であり、目的です。
その指針として試合などの競技があると捉えます。
つまり、技だけでなく、いかに己の精神が向上したのか、いかに人間として成長したのかと常に問うのが「情熱的な空手」なのです。
試合に勝つことだけを考えてばかりいると、勝つか負けるかの結果論となり、試合に勝てないと空手をやっていることに意義が見いだせなくなる。
試合に勝てないとやる気がなくなって、いつの間にかモチベーションが下がってしまう、ということがあります。
それは「情熱的な空手」ではなく「乱暴な空手」の世界に浸っているのです。
試合に勝っても負けても、そのすべてを己の成長に結びつけるのが「情熱的な空手」であり、試合に負けたら自分の存在が価値のないものだと感じてしまうのが「乱暴な空手」なのです。
《身体能力を補うものとは?》
空手は護身術であり、競技であり、格闘技と言うこともできます。
ですから、そこに身体能力の差が大きな勝敗を分ける要因となります。
瞬発力が強い、力が強い、体が大きい、手足が長い、などの身体的長所は試合において有利に働きます。
ですから、当然、身体能力に劣っている者は、試合に勝てないということが起きてきます。
ですが、身体能力を補うものがあります。
それが「情熱」です。
情熱があれば身体能力の差をある程度うめることができます。
「どうしたら強くなるのか」
「武道者として自分になにが足りないのか」
「弱い自分の心を強くしたい」
「奥義を極めたい」
こうしたことへ情熱を持つ者は、転んでも起き上がり、負けても強くなります。
その強さの比較は相手ではなく「過去の自分」です。
過去の自分より強くなることを第一に目指すのが「情熱的な空手」です。
ですから、「情熱的な空手」に目覚めることが正当な武道者としての奥義に近づく道なのです。

《まとめ》
強さだけを追い求める空手は「乱暴な空手」。
他人との比較の中で勝ち負けだけを競うのが「乱暴な空手」。
あくまでも勝たなければ意味がないと考えるのが「乱暴な空手」。
試合に勝てない選手を腹の中で見下すのが「乱暴な空手」。
武道者としての究極の技と精神を追い求めるのが「情熱的な空手」。
己に勝つことを最大の関心事にするのが「情熱的な空手」。
勝っても負けても己の成長につなげるのが「情熱的な空手」。
過去の自分より強くなることを第一に目指すのが「情熱的な空手」。

『心得4』
『乱暴な闘いではなく、情熱的な闘いをしなさい。乱暴な空手と情熱的な空手は紙一重で違うもの! 情熱があれば能力の限界を超えられる!!』
押忍!