
心得5
『武道の究極の境地は無心。恐れもなく、怒りもなく、緊張もなく、慢心もなく、ざわめく心もない。心はないだ湖のように静かである。ただただ無心であれ!』

【解説】
《「武道」「武術」「格闘技」の言葉の定義》
今回は、武道初心者には少し難しい話をします。
ですが、武道者(武術者)にとって、究極の話であり、武道者には欠かせないとても大切な心得です。
武道と格闘技は、「技」「闘い」という観点ではすごく共通していて、分けて考えることが非常に難しいものです。
武道と格闘技は表面上で区別することが難しいということです。
武道と格闘技という言葉とは別に、私はよく「武術」という言葉を使用します。
「武術」という言葉を使用する場合は、「防衛する技」「闘う術」という意味合いが強くあらわれています。
「武術」という言葉は広い定義を表わす言葉なので「武道」にも「格闘技」にも含まれるものです。
一方、「武道」という言葉を使用するときは、そこに「道」「精神修養」という要素が入っていることを意味します。
「格闘技」という言葉には、「武道」とは違い、「精神修養」という要素が薄く、「いかにして闘いに勝つか」という要素が強くなります。
(あくまでも私個人の定義です)
私のブログ『武術初心者のための心得と勝利の秘訣』の「武術」という言葉には「武道」と「格闘技」を含ませて意味があります。
ですが、今回の記事は主に「武道」に関するものとなります。
つまり、「精神修養」という要素について、ということになります。
《「武道」の最終的な目的とは?》
空手や拳法などの武道(柔道、剣道も共通している)を習得する目的はなんでしょうか?
どうして武道を習おうと思ったのでしょうか?
「強くなりたいから」
「強さに憧れているから」
「カッコいいから」
かもしれません。
ですが、武道(武術)は他のスポーツと違うことがあります。
それは「奥が深い」ということです。
もちろんスポーツにも奥の深さはありますが、武道の奥の深さには比べようもありません。
それは武術とスポーツの歴史の差を見れば明らかです。
つまり、武道には究極の目標があり、それを極める(習得する)ことは極めて困難である。
しかし、一旦武道者の道を歩み始めたならば、その道の究極をめざすべき、ということです。
武道の究極の姿(目標)は、「無心の心」だと思うのです。

《「無心の心」とは?》
スポーツ化した武道でも格闘技化した武道でも試合などで闘って優劣を決すことには変わりありません。
「闘い」である以上そこにある感情が芽生えます。
それは「恐怖」「緊張」「怒り」「己惚れ」などの「煩悩」と、心を乱すさまざまな「雑念」です。
武道を単なる格闘術、戦闘術として捉えてはいけません。
「心技体」というように、まず「心」なのです。
それが他の戦いに勝つことを最優先した格闘技との違いです。
空手には本来「先手」はありません。
発祥時の空手は防衛術であり、防衛が主体の武術だったのです。
空手が持つそうした精神(スピリット)を現代の格闘技と並列に考えている空手家がいたとしたならば、考え方を見直さねばなりません。
少林寺拳法になると、いまでも精神(スピリット)がしっかり根付いています。
「力愛不二」、力(武術)と愛の心は別のものではない、同じ力の側面なのだ、という思想が少林寺拳法には連綿と流れています。
ですから、少林寺拳法は、相手を再起不能なほど痛めつけないという術の体系となっているのです。
それは戦闘術としてみれば、“か弱い”ように見えるかもしれませんが、そこに少林寺拳法のスピリット(精神)があるのです。
そのスピリット(精神)は、少林寺拳法を修練する者が目指すべき道でもあるのです。
現代の空手などの武道において試合に勝つということがどうしても前面に出て来ていますが、本来、武道を取得することの目的には、「闘っても負けない戦闘術を身につけることが精神を高めることにつながる」という思想があるのです。
それが「武の道」なのです。
その「道」とは、心に生れる様々な煩悩である「恐怖心」「己惚れ」「怒り」「欲深さ」などを滅する道です。
つまり、武道と格闘技に違いがあるとするならば、精神を高めることにどれだけ重きを置いているか、ということの違いだと言えます。
《「武の道」と「邪の道」の違い》
〈武の道とは?〉
武の道とは、
「強くなる」ことが「利他」、他人への優しさに変わること。
身体を鍛えることで精神を向上させること。
闘う術を身につけることで、「不安」「恐怖」を抱かない強い心境をつくること。
武の道の究極をめざして歩むことで「謙虚さ」を身につけること。
「武の神」を称えることで、品性と礼儀を身につけること。
〈邪の道とは?〉
ときに、武道者の道を歩んでいた者が道を踏み外してしまうことがあります。
邪の道とは、
目上の者へ反逆する者は「邪の道」へ落ちた者。
恩ある人へ仇を返す者は、「邪の道」へ落ちた者。
勝つことのみに快感を覚える者は、「邪の道」へ踏み込んだ者。
弱き者への優しさを忘れた者は、「邪の道」を歩む者。
「怒り」、「憎しみ」、「己惚れ」に憑りつかれた者は、「邪の道」の奥の「魔道」に落ちた者。
「愛」よりも「力」を信じた者は、「魔道」を歩む者。
《武道者の究極の目標は「悟り」》
武道が示す道とは「サムライの道」に似ていて、なおかつ武道者としての「悟り」をめざすものでもあるのです。
しかし、現代の武道者は、「勝つこと」にのみ焦点を当てすぎています。
結局、武道者が歩む道は宗教者がめざす悟りの境地と極めて近いものなのです。
身体を鍛えることが精神を鍛えることと同義とならなければならないのです。
そのいい例が、室町末期に活躍した剣豪塚原卜伝でしょう。
武道者を名乗るなら、ただ強いだけではだめなのです。
強さを身につけた上に、高き精神、優れた人格を持ってこそ真の武道者と言えるのです。
礼節や仁義などの徳目を身につけることが真の武道者の目的であるのです。
ですから、人格の向上の無いものは武道ではなく、ただ生死を掛けた戦闘術でしかないのです。
初心者には、難しい話でありますが、武の道のはじめにあり、終わりにある話なのです。
常に、人格の向上を伴う鍛錬が大切です。

《まとめ》
「武道」とは、本来「防衛術」。
そこに「武の道」がある。
その道とは「精神修養の道」であり「人格向上の道」
よって、人格の向上をもたらさないものは武道ではなく、単なる戦闘術。
武道が示す道とは「サムライの道」に似て、宗教的「悟り」に近いもの。
「武の道」を歩む者が心掛けることは、邪念を排除すること、煩悩を滅すること。
正しく「武の道」を歩むなら、「礼儀」「品性」「自制心」が身につくはず。
つまり、戦闘術を身につければ身につけるほど心が磨かれていく。
強さを身につければつけるほど、愛に目覚めていく。
それが正しき武道者の姿。
その心境は「無心」。
「無心」こそ、武道者の究極の心。

日々、雑念を払い、煩悩と闘い、無心の境地をめざすべき!
心得5
『武道の究極の境地は無心。恐れもなく、怒りもなく、緊張もなく、慢心もなく、ざわめく心もない。心はないだ湖のように静かである。ただただ無心であれ!』
押忍!